徳川家康 (1542〜1616)
江戸幕府初代将軍、幼年期は今川へ人質として遣られ、桶狭間で今川義元が敗れるまで長い間囚われの身であった。父広忠はその間に家臣に殺害された。桶狭間後開放され生地の岡崎の戻り織田信長と同盟を組み父の意思をついで三河の統一に着手した。
三方ヶ原敗戦 (1572)
将軍足利から信長討伐の御内書を授かった武田信玄は京に登るべく家康の居城浜松城に向かうような勢いだったが、急に進路を西に変えて三方ヶ原から追分へ出た。その時家康は何を感じたのだろうか。留意する家臣団の声に耳を貸さず絶対的な不利を省みず三万の武田軍に対して一万の軍勢で三方ヶ原へ打って出た。結果は徳川軍の大敗であり家康はいのちかながら浜松城に逃げ帰った。
天下人
ご存知のように後に家康は信長・秀吉の時代を凌ぎきって磐石の江戸幕府を開きます。戦国武将の中で唯一大成功をおさめた人物と成ってゆきます。其の過程において家康にとってこの三方ヶ原での敗戦はどのような意味を持っていたのでしょう。単に歴戦の中のひとつと勘定されるものでは無かったはずです。家康が浜松城でかかせた三方ヶ原敗戦益画像(
徳川美術館収蔵)は家康にとってまさに戒めとなるもの。そして若い頃は意外に血気盛んだった家康も信玄の「動かざる事山の如し」よろしく「鳴くまでまとう不如帰」の極意をこの戦の経験によって得たのかもしれない。家康は信玄から多くのものを学び取ったと言えるかもしれません。
武田遺臣
勝頼の最後と宿命を伴にする遺臣は以外に少なかった。もちろん信長は後の患いを絶つ為に家康に武田家臣団の壊滅を望みそのように家康に命じたはずである。しかし家康はそれを容れず武田家の遺臣を大量に招き入れた。しかも譜代の家臣と同等に召し使うという条件までつけた。これは家康が三方ヶ原以降ずっと抱き続けてきた武田信玄そして武田軍への畏敬の念が為した政策ではないかと思う。結果、武田氏の武士大将だった駒井昌直、今福昌常の両人を始めとする総数八百九十五人の武田遺臣団が条件を受けて家康に臣従した。その後この遺臣団は家康の天下統一の道のりにおける要所要所で家康をよく助け、大偉業に尽力した。
やはり負けはしたが、家康にとって三方ヶ原敗は大変に大きな意味のある戦だったと云えるでしょう。