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徳川家康
元亀三年(1572)謙信の冬篭りに乗じて信玄は西上し一路都を目指す。武田阻止の最前線にたったのは若干三十一才の徳川家康だった。家康は上杉、織田と同盟を結んでいたもののその兵力は僅か八千プラス織田方の援軍三千。決死の覚悟で浜松城にて三万の武田軍を待った。
信玄北に進路を取る
信玄は浜松城を無視して、進路を北に取り東三河に兵を進めた。織田方からすれば、これ幸いである。百戦錬磨の武田軍と戦えば負ける公算が高い、今織田・徳川連合の兵力損失は避け無ければ成らない。そして軍議の席は自ら墓穴を掘らないこと一点に絞られたかのように思われた。
しかしこれに異議を唱えたのは徳川家康その人であった。「浜松城は信玄によって蹂躙されたも同然、これに一矢も酬わずしていられようか」強引に軍議を拝し援軍併せて一万の兵で家康は三方ヶ原へ進軍して武田の大軍を待ち伏せた。

決戦
鶴翼の陣で三万の武田軍を待ち伏せる徳川軍に対して信玄は行進中の隊列を横に展開して魚鱗の陣を構えた。数においても戦法においても徳川に勝る武田軍は前後から総攻撃をかけ徳川軍を総崩れにさせた。
浜松城へ敗走した家康はその時の怯えた自分の姿を絵師に描かせて、後の戒めとした。

信玄、没する
よく元亀四年二月徳川の支城野田城を落とした信玄は三河の各地を蹂躙して上洛を目前にしていたが四月に入り下伊那の駒場でこの世を去った。
三方ヶ原敗戦益画像
徳川美術館収蔵